第一期の西方寺『てらギャラ』(令和5年9月20日〜22日)で展示した西方寺所有の法然上人絵伝(弘願本)(複製)の第一巻です。約12mの長さの巻物です。
第二期の西方寺『てらギャラ』(令和5年10月6日〜7日)でも展示します。
【現代意訳】 およそ過去・現在・未来の三世に多くの仏が出現されて、少しばかりの人々を救っておられる。その現在世の賢劫の間に出世される千人の仏陀の四番目に当たられる方であるが、南国の印度で浄飯王の治めておられた癸丑年(紀元前四八四)七月十五日に、その御后が夢の中で金色の天子が白馬に乗って右の脇腹に入られるのを見、次の年の甲寅(紀元前四八三)四月八日に、釈尊はお生まれなさった。その時、美しい蓮華が釈尊の御足をお受けして、釈尊は七歩歩まれた。詩頌には「この世界に我よりも尊いものはない。この三界(我界・色界・無色界)は皆苦しみである。我はまさに今、人々を苦しみから救うのだ。」とある。釈尊が出世された時、中国は周昭王の時代に当たり、日本は彦波歛武鸕鷀草葺不合尊(神武天皇の父)の八十三万四千三十六年に相当した。話を元に戻すと、シッダルタ太子は十九歳で城を出られ、三十歳にして悟りを開かれたが、釈尊の御生涯の五期(華厳・鹿苑・方等・般若・法華涅槃)の間には、説法が盛んであったけれども、説法を聴いても体得する人は少なく、仏法を伝える人はあるが悟る人は少なかった。それ故に後の世の我我のために、阿難を先達として仏法を唱える「唱導」の師として仏教を興させられた時「面は浄き満月の如く、眼は青き蓮華の若し、仏法の大海水は阿難の心に流入せり」とおっしゃった。まるで生き仏のように仏の備えている三十二の身体的特徴である三十二相を備えられ、四種の優れた理解や弁説の能力、又、八種の聖者の音声が見事であられ、泉のように湧き出る話しぶりは仏の教えを一言も漏らさず、水の流れるが如く淀みなく溢れ出た。それを梵天王が文字を作られたのをもって、千人の阿羅漢が書かれ、少しも書き落とすということをなさらなかった。正法は千年の間、インド全体で盛んであって、中国では後漢の明帝の時、摩騰迦・竺法蘭等が優陀演王宮に現われなさった白檀の仏像をお迎えになられると、仏像は大いなる光明を放たれた。永平七年(西暦六四年)のことであった。同じく十年(西暦六七年)、白馬寺を建立した。それから後四百八十年余り過ぎて欽明天皇の時、聖徳太子壬申(西暦五五二年)の十月、百済の国の聖明王は釈迦の金剛の像と経典を献上し、聖徳太子は像を刻み四天王寺を建立した。それより以降、聖武天皇は東大寺盧舎那仏を鋳造され、仏教が興隆して殆ど釈尊在世の時と異ならなかったが、それもだいぶ遠のいてしまった。今、先師法然上人が念仏を勧められた由来を画に書きあらわすのはこういう訳である。
【現代意訳】 釈尊が入滅されてから二千八十二年経った時、日本では崇徳院の在位、長承二年(一一三三年)に、美作の国(岡山県)久米で今の警察署長にあたる押領使の職務にあった漆間朝臣時国と秦氏の出身のその妻とは、子どもがないことを悲しんで仏神に祈った。特に観音様にお祈り申して子供を授かられた。このように神仏に祈願して得られた子供は皆、優れた方達である。念仏往生をした勝尾の勝如、生往生要集を著した橫河の源信僧都といった人も皆、その母が祈願して生まれた方である。法然上人も観音様が与えられた子供なので、このような方々のように尊い方である。仏菩薩が人々に恵みを与えられることも正法・像法・末法という時期や、人々の機根によって異なる。故に釈尊がお生まれなさって正法千年が過ぎ、像法の世も過ぎて、仏法のみあって修行する人がいないという末法の世になってから久しいので、判り易く説き示された顕教も悟る人がなく、密教の行を行う人も少なくなってしまった。このことにより法然上人は判り易く、行のし易い念仏を弘めて、人々に仏の恵みを与えるために、この浄土宗を建立された。
【現代意訳】 時は長承二年(一一三三年)四月七日の正午、法然上人の母には少しのお苦しみもなかった。その時、空から二流れの幡が降りてきた。それは思いがけないおめでたい事の前兆であった。その様子は見る人の目を驚かし、聞く人の耳をたいそう驚かしたのであった。 法然上人が五、六歳になられた頃には、分別がもう大人のようであった。又、いつもどうかすると西の方に向かう癖があり、人々はそのことを不思議に思っていた。
【現代意訳】 保延七年(一一四一年)の春、時国は戦の相手に疵つけられてしまった。法然上人はその時九歳であられ、竹製の羽付き小矢で相手を射った。眉の間にはその時の疵が残った。相手はこの疵があるので、誰が時国を襲ったか判ってしまうと思って逃げ隠れた。相手が時国を心に怨んだのは、時国が稲岡の庄の庄官でありながら、その地の荘園を管理する役職の預所である相手を軽んじて、面謁しなかったことが原因である。その敵というのは伯耆守であった源長明の子で、武者所にいた定明のことである。明石の源内武者と言われていた。堀川院が御在位の時の滝口の武士をしていた人であった。彼はこの地から姿を暗ましてしまった。
【現代意訳】 時国は深い疵を負って命が尽きようとしていたので、その時に臨んで九歳の幼き我が児に「父はこの疵でもう死んでしまうだろう。しかし決して敵を恨まないようにして欲しい。それでも敵討ちをと思うならば、いつまで経っても戦が絶えない。父の願いは、此の世の妄縁を断ち切って極楽に生まれることだ」と言って、念仏を申して息絶えた。「このあだをきっと恩をもって報いて欲しい。仇をもって報いるならば仇が尽きない」と言った。
【現代意訳】 幼き遺児は深く父の遺言を心に留めて、母に暇乞いを願って「昔、釈尊は十九歳で密かに父君浄飯王の宮殿を出られ、三十歳にして悟りを開かれました。私は比叡山に登って両親の来世を弔い申し上げたい。決して悲しいとか心細いとか思われませんように」とおっしゃった。母はその道理に折れて、ますます我が児の上に涙を流された。
信(まこと)とてはかなきおやの とどめおきし 子のわかれさへ またいかにせん
【現代意訳】 その後、美作の国(岡山県勝田郡奈義町)の菩提寺の院主で智鏡房得業観覚は、幼い法然上人をいとおしく思い弟子にされた。観覚が仏法を教えると、生まれつきとても賢くて、聞いたことは忘れなかった。観覚は彼の才能が素晴らしい物であることを感じとり、比叡山に登らせてゆくゆく天台宗の大徳となれるよう取り計らった。 さて、観覚は幼き法然上人が俊才なことを喜んで同朋に「この児の才能はたいへん素晴らしく普通の人とは違っている。喜ばしいことだなあ、無駄に田舎に置いておくようなことをしてしまっては」と言って、京に上らせることになった。母はこのことを聞いて名残りを惜しんだ。
【現代意訳】 月日が経つにつれ観覚は法然上人の才能が只者ではないとますます強く感じて、ゆくゆく天台宗の大徳にしようと思って、比叡山へ登らせる推薦状に「差し上げます、大聖文殊の像一体」と書いた。比叡山の師はこの推薦状を見て何のことだろうと思っているところへ幼い児がやって来た。年齢は十三歳であった。その児を見て源光は、観覚が「文殊の像を差し上げます」と書いてきたことの意味が判った。その時、児の顔かたちを見ると、頭が窪んでいて角があり、眼からは光を放っている。これらは皆、聡明な垂れ髪の童児に見られる優れた特徴である。